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スペイン統治時代:最初のヨーロッパからの探検家として太平洋を航海(マゼランが1521年にグアムに上陸)し、そして、少なくとも7隻のスペイン船が16世紀にマーシャル諸島を通過しています。年代順に探検家たちがマーシャル諸島を訪れた環礁を紹介しますとエネィウェタック、ビキニ、ワッジェ、クワジェリン、ウジェラング、リブ、メジットとなります。最初はわずかな物々売買と交換でしたが、その後1700年代までは訪れておりません。
16世紀にマーシャル諸島に来航したスペイン船:
1526年
サンタビクトリア
1529年
フロリダ
1543年
サンティアゴ
1565年
サンペドロ
1566年
サンジェロモノ
1568年
ロスレヨスロスおよびトドスサントス
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イギリス統治時代:1788年にイギリス人船長2名(ジョン・マーシャルとトーマス・ギルバート)がスカーバーラ号およびシャーロット号で訪れており、それぞれの名前が環礁名の由来となっています。(マーシャルはマーシャル諸島、ギルバートはキリバスのギルバート諸島)マーシャルとギルバートは島民と取り引きして、アルノ、マジュロ、アウル、マエロラップ、ワッジェ、エルグッフおよびアイルックの環礁図を作成しました。
引き続き、1797年にはブリタニア号がナム環礁を、その後1803年にローラ号がアイリングラップラップを、1809年にエリザベス号がヤルートを訪れています。
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ロシア統治時代:1816年にキャプテンのオットー・フォン・コッツェブーがロシア皇帝の命を受けてルーリク号にて訪問し、マーシャル滞在中はワッジェ、マロエラップ、アウルなどの民俗誌学的な調査を行うとともに、その記録を文書として初めて残しました。また、同航海において、水路学、植物学、民俗学の詳細な文献を芸術家のラドウィグ・コリスや博物学者のアーデルベルト・フォン・シャミッソーが表しています。(ホノルルのビショップ博物館では伝統的なマーシャルでの生活を描いたリトグラフを見ることができます)
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反乱者と宣教師:この後、マーシャル諸島への渡来の記録が残っているのは、1828年に起こったアメリカのグローブ号での水兵による反乱であり、ミリ環礁での2名の生存者はその後にアメリカ軍によって助け出されました。
次に、アメリカの宣教師は1857年にエボン環礁にホノルルから渡来し、19世紀末までに、米国海外宣教委員評議会(American
Board of
Commissionars
for
Foreign
Missions)は住人がいるほとんどの環礁に教会を建てております。
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ドイツ統治時代:サモアでの商取引を確立した後、ドイツ商人は1850年代および1859年に北方へと勢力を伸
ばし、アドロフ・カペラは商業地を
決めるためエボン環礁に来島しています。ハノーバー出身の彼は、ポルトガル人のホセ・デブラムらと一緒にマーシャル諸島での最初の恒久的な交易を行うこととしました。結局、マーシャルはドイツの保護国としてジャトールをマーシャル諸島の中心とすることを宣言しています。
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日本統治時代:29年間のドイツの保護国状態の後、1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発しました。
日本は、その年の10月にドイツから軍事物資を受け継ぎ、ジャルートとマジュロを日本の交易の本拠地としました。1922年(大正11年)に日本は国際連盟から旧ドイツ植民地の統治に関する委任を正式に認められおります。しかし、1933年に日本は国際連盟から脱退し、クワジェリン、ワッジェ、マロエラップ、ヤルート、そして後にはミリ、エネィウェタック環礁へと軍隊を進め、第二次世界大戦に踏み込んでいくことになります。
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アメリカ統治時代
太平洋の他の地域と同様にマーシャルにおいても壮絶な戦いがありました。戦争終結後の1947年に米国海軍は、直ちにマーシャルを統治し、国連から統治を委任され手織ります。1951年(昭和26年)には内務省に引き継がれております。
その間、1946年(昭和21年)から1954年(昭和29年)まで、米国はエネィウェタック環礁とビキニ環礁において67回もの核実験を行っております。(今日、マーシャル諸島共和国と米国の間には和解事項とし課題が残されています)1970年(昭和45年)代後半には、国連統治下において米国は、マーシャル諸島が独立できるよう指導してきた結果、米国の自由連合傘下のもとに1986年(昭和61年)にマーシャル諸島共和国として独立に至りました。
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