History
 

歴史

 

第二次世界大戦:

第二次世界大戦の間、マーシャル諸島は中部太平洋における日本軍の東の防衛線としての役割をもっていました。

1914年(大正3年)にマーシャル諸島をドイツから支配権を奪い取った後、1930年(昭和5年)代後半には戦争を目的として日本軍は軍力を増強し、特にクワジェリン、ワッジェ、マエロラップ、ジャルート、後にミリ、エネィウェタックを重装備化しました。

これらの装備は、特にハワイ、ウエーキ島、キリバスおよびジョンソン環礁への空襲を援護するためであり、日本の西の防御線としての役割を担っていました。

 

アメリカのマーシャル諸島の日本軍へ攻撃は1942年(昭和17年)21日早朝に行われ、その後3年間は太平洋上で壮絶な戦いが繰り広げられました。そして残ったものは戦争で使われた多くの残骸と遺物でした。

 

以下のリストはマーシャル諸島への陸上で残された無傷の産物です。 これらは防空壕、バラック、病院、倉庫、発電所、タンク、トラック、列車、塔、対空砲、沿岸の防禦銃、銃、弾薬箱、壁、塹壕、航空統制本部、様々な爆撃機、戦闘機、滑走路、格納庫などであり多くのものが残されています。

 

環礁などに残された遺物の数

マロエラップ(Maloelap)

215

ジャルート(Jaluit)

104

ワッジェ(Wotje)

229

ミリ(Mili)

167

 

マーシャル諸島の歴史:

以下では、マーシャル諸島の簡単な歴史を16世紀のスペイン人の来島から1986年(昭和61年)の独立にいたるまでについてお話しいたします。

スペイン統治時代:最初のヨーロッパからの探検家として太平洋を航海(マゼランが1521年にグアムに上陸)し、そして、少なくとも7隻のスペイン船が16世紀にマーシャル諸島を通過しています。年代順に探検家たちがマーシャル諸島を訪れた環礁を紹介しますとエネィウェタック、ビキニ、ワッジェ、クワジェリン、ウジェラング、リブ、メジットとなります。最初はわずかな物々売買と交換でしたが、その後1700年代までは訪れておりません。

 

16世紀にマーシャル諸島に来航したスペイン船:

1526 サンタビクトリア

1529 フロリダ

1543 サンティアゴ

1565 サンペドロ

1566 サンジェロモノ

1568 ロスレヨスロスおよびトドスサントス

 

イギリス統治時代:1788年にイギリス人船長2名(ジョン・マーシャルとトーマス・ギルバート)がスカーバーラ号およびシャーロット号で訪れており、それぞれの名前が環礁名の由来となっています。(マーシャルはマーシャル諸島、ギルバートはキリバスのギルバート諸島)マーシャルとギルバートは島民と取り引きして、アルノ、マジュロ、アウル、マエロラップ、ワッジェ、エルグッフおよびアイルックの環礁図を作成しました。 引き続き、1797年にはブリタニア号がナム環礁を、その後1803年にローラ号がアイリングラップラップを、1809年にエリザベス号がヤルートを訪れています。

 

ロシア統治時代:1816年にキャプテンのオットー・フォン・コッツェブーがロシア皇帝の命を受けてルーリク号にて訪問し、マーシャル滞在中はワッジェ、マロエラップ、アウルなどの民俗誌学的な調査を行うとともに、その記録を文書として初めて残しました。また、同航海において、水路学、植物学、民俗学の詳細な文献を芸術家のラドウィグ・コリスや博物学者のアーデルベルト・フォン・シャミッソーが表しています。(ホノルルのビショップ博物館では伝統的なマーシャルでの生活を描いたリトグラフを見ることができます)

 

反乱者と宣教師:この後、マーシャル諸島への渡来の記録が残っているのは、1828年に起こったアメリカのグローブ号での水兵による反乱であり、ミリ環礁での2名の生存者はその後にアメリカ軍によって助け出されました。

次に、アメリカの宣教師は1857年にエボン環礁にホノルルから渡来し、19世紀末までに、米国海外宣教委員評議会(American Board of Commissionars for Foreign Missions)は住人がいるほとんどの環礁に教会を建てております。

 

http://www.visitmarshallislands.com/images/guidebook/guidebook_img_3.jpgドイツ統治時代:サモアでの商取引を確立した後、ドイツ商人は1850年代および1859年に北方へと勢力を伸 

 ばし、アドロフ・カペラは商業地を

    決めるためエボン環礁に来島しています。ハノーバー出身の彼は、ポルトガル人のホセ・デブラムらと一緒にマーシャル諸島での最初の恒久的な交易を行うこととしました。結局、マーシャルはドイツの保護国としてジャトールをマーシャル諸島の中心とすることを宣言しています。

 

日本統治時代:29年間のドイツの保護国状態の後、1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発しました。 日本は、その年の10月にドイツから軍事物資を受け継ぎ、ジャルートとマジュロを日本の交易の本拠地としました。1922年(大正11年)に日本は国際連盟から旧ドイツ植民地の統治に関する委任を正式に認められおります。しかし、1933年に日本は国際連盟から脱退し、クワジェリン、ワッジェ、マロエラップ、ヤルート、そして後にはミリ、エネィウェタック環礁へと軍隊を進め、第二次世界大戦に踏み込んでいくことになります。

 

アメリカ統治時代

太平洋の他の地域と同様にマーシャルにおいても壮絶な戦いがありました。戦争終結後の1947年に米国海軍は、直ちにマーシャルを統治し、国連から統治を委任され手織ります。1951年(昭和26年)には内務省に引き継がれております。

その間、1946年(昭和21年)から1954年(昭和29年)まで、米国はエネィウェタック環礁とビキニ環礁において67回もの核実験を行っております。(今日、マーシャル諸島共和国と米国の間には和解事項とし課題が残されています)1970年(昭和45年)代後半には、国連統治下において米国は、マーシャル諸島が独立できるよう指導してきた結果、米国の自由連合傘下のもとに1986年(昭和61年)にマーシャル諸島共和国として独立に至りました。

 

水中写真は、クワジェリンのデイブ・フォーティン氏の提供

 地史:

 

マーシャル諸島は、7000年前に現在は存在しない赤道の南のホットスポット(*)が噴火したさいに出現しました。4000万年前には太平洋プレートが北西方向に移動し続けて火山の活動は収まりました。

3000万年前には、火山の沈下とともにリーフを形作る島が出来上がり、鳥や海流によって運ばれた植物の種が育って、現在皆さんが見ているようなリング状の環礁となったのです。高度の塩分濃度による温暖な海水での成長、火山活動の広がりによる残された海水面の保護や鳥や海流によって運ばれる野生種により、3000万年前に生命が維持できるようリーフに小さな島が形作られました。

 

(*)ホットスポットとは、地殻下部またはマントル上部の、高温の物質が上昇する部分。

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